エルサレムの歴史

2023年10月7日にハマスがイスラエルを越境襲撃し、2023年11月23日今も紛争が継続しています。ピンポイントでその紛争だけを見ていると良く意味が解らないので、自分なりに勉強した内容を展開します。人間として生まれは同じ、手を取り合って生きていく知恵がある事を信じています。

エルサレム
エルサレム

聖地エルサレム

  • キリスト教 聖墳墓教会(キリストの墓とされる場所に建つ協会)、聖ヤコブ主教座聖堂
  • ユダヤ教  嘆きの壁がある場所
    紀元70年ローマ軍の制服で破壊された神殿の残った壁、この時世界中にユダヤ人が散らばっていった。
  • イスラム教 岩のドーム(嘆きの壁がある上に建立)
    7世紀建立、ムハンマドがアラーの元に上った場所

シオニズム運動と第一次世界大戦

19世紀中頃からキリスト教のヨーロッパで、ユダヤ人は迫害・排斥を受けていた。

19世紀末、旧約聖書ゆかりの地、パレスチナにユダヤ人の国を作ろうとするシオニズム運動が始まる。

世界中のユダヤ人の募金を元に、パレスチナの土地を購入しヨーロッパからユダヤ人の移住が進んでいった。

第一次世界大戦 連合国(特にイギリスが石油の利権の獲得を狙い)が、オスマン帝国と1918年10月30日ムドロス休戦協定を締結し崩壊させた。

この戦争で、イギリスは世界各地に散らばったユダヤ人の持つ財力を狙い、シオニズム運動(イスラエル国家建設)の支援を約束。ユダヤ人は、資金・兵力を支援。

イギリスは、アラブにも国家建設を認めると約束。

オスマン帝国崩壊後、エルサレムの周辺でイギリス領政府の力を借りて近代的な街づくりを加速。

1929年8月嘆きの壁事件を契機に、土地をめぐりアラブ人の組織的な抵抗が始まりテロの応酬がパレスチナ全土に広がった。

イギリスは、エルサレム周辺をイギリスの委任統治下に置いたまま、パレスチナを分割しそれぞれの独立国家を作るという調停を行ったが両者とも拒否。

第二次世界大戦とパレスチナ

第二次世界大戦後、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺ホロコーストの映像が世界中に伝わり、事件を契機に、ホロコーストを逃れた多数のユダヤ人がパレスチナに押し寄せた。

アラブ人の反感が高まり、テロの応酬がパレスチナ全土にひろがり、1947年手に負えなくなったイギリスは、委任統治権を放棄し国連に解決をゆだねる。

国連の分割案は、エルサレムは国際共同管理、ユダヤ人国家55%、アラブ人国家45%に対して、倍以上の人口を抱えるアラブ人は、分割そのものに反対。

しかし、分割案は国連で決議され、その僅か半年後にイギリスは統治を終え撤退を行った。

1948年イスラエルは独立宣言を行った。

第一次中東戦争

国連決議に不満の、レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラクのアラブ諸国(以降アラブ諸国と記述)がイスラエルに宣戦布告するも、事実上のイスラエルの勝利となる停戦協定を締結。

イスラエルは、78%の領土を手に入れ、ガザ地区はエジプト領に、ヨルダン川西岸はヨルダン領となった。

イスラエル人に土地を奪われたアラブ人70万人が周辺の国に逃れて、パレスチナ難民となった。

第三次中東戦争

エジプトからの戦争の動きに対して、1967年6月5日イスラエル空軍のアラブ諸国の空軍基地の壊滅的な奇襲攻撃を皮切りに6日間で戦闘を終結。

イスラエルが、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領。

イスラエル油断の第四次中東戦争

1973年10月6日アラブ諸国の逆襲を受け、イスラエルは苦戦をし停戦。

1982年シナイ半島のエジプトへの返還。

パレスチナ自治政府

こうして、ガザ地区(2/3は第一次中東戦争の難民およびその子孫)とヨルダン川西岸が、パレスチナ自治政府となった。結局パレスチナは国とはならず自治政府となった。

ガザ地区は、イスラム過激派ハマスの実効支配地域となった。

ヨルダン川西岸は、パレスチナ政府とイスラエル軍で統治されている。計画的にイスラエルの入植が進んでいる。

タイトルとURLをコピーしました